キリストか共産主義か。
<共産主義>
だが、いくら人間社会を正確(科学的・客観的)に分析したところで、現実に何かを変えられる訳ではない。
個人の力でシステム・構造を変えるなど、殆ど不可能である。
第一、変えるほどの価値があるのだろうか?-我々は愚かだ。
人間の人間による人間のためのユートピア、それが共産社会という名の人間社会なのだとすれば、そんなものは訪れないだろう(仮に、自由の王国が訪れたとしても、人間中心主義的すぎて、直ぐに崩壊する)。
人間に、そのようなユートピアで生きる資格はないだろうし、また、生きるべきでもないと思う。
何の服従もない、辛酸を舐める事も、世の不条理を噛み締めることもない、そんな社会で生きる、それは人間の姿だろうか?
もし、神や資本といった服従する対象(我々を縛るもの)が無くなったら、我々は、暇すぎて生きたまま死ぬのではないか?
<キリスト>
自由の王国というユートピアは、決して実現しない。それゆえ、我々が生きる社会には、理不尽で不合理な事柄が山ほど存在する。そして、そういった事柄は、殆ど解決されないまま放置される(ここに、人間の「碌でもなさ」がある)。
だから、現実に苦しみ、助けを求める者は、この世のものを超えた(この世のものではない)存在たる救世主・絶対者を想起し、祈るしかない。私を救って下さい、と。
おそらく、「他者に対する謙虚さ」というものは、ここから始まる。
やはり、現実に絶望、幻滅した人間は、自分の外部にある絶対者なしには、生きて行けないのではないか。
僕が、現代社会を人間中心主義と批判したり、他者との共生を訴えたりするのは、ただ単に、"普通の人"でいたくない、自分は"普通の人"ではない、自分は特別な才能を持っている、ということを虚栄的に示したいだけなのかも知れない。
我に問う、他人と違うから何なのだ?
善く生きるとは何か?
自分が本当に生きたいと思うように生きること。
それが1番いい。
その現実存在にとっては。
やはり、「善い」には、他者の視点が必要な気がする。独善は善くない。
現代における倫理教育の難しさ
我々は、もはや絶対者の存在を、素朴に信じることが出来ないでいる。
神はどこだ!?神はどこにいる!?
ああ、やはり、神は死んだのである。
我々は、自分を超えたものに対する畏敬の念を、持てなくなっている。
それゆえ、我々は、自分自身の足で、立ち、歩んでいかねばならない。
だが、それは難しい。
つまるところ、棒になるか、幻滅して酒乱になるかだ。
神が資本となった現代において、善く生きる、というのは難しいのである。
芸術による気晴らし
罪なき罪を背負い、罰なき罰に怯える。
そんな私を救ってくれるのは、芸術なのかも知れません。とりわけ、音楽が良い気がします。
僕を学問の世界に引き留めるのは、ひとえに、自分はあの無知で愚かな大衆とは違う特別な存在なのだ、という傲慢に似た陰湿な感情なのです。
やはり、Knowledge is power だ。
人間は、無人島にでも行かない限り、生きていく上で、他の人間と関係を持つことになる。
他の人間(=他人。特に、「自分とは異なる価値観を持った人」の場合)と関わる際には、意識して、そして努力して、共生関係(win-winな関係)を築くべきである(じゃなきゃ、不毛な争いが生じる<みんな、自分の事しか考えられなくなってるから>。そりゃ、偶には争いも必要だろうが、ずっとドンパチやってる訳にはいかない。皆が傷ついて、仕舞いには社会が崩壊してしまう)。
ずっと昔は、自分と異なる価値観を持った人間なんて、自分の生活の範囲内にいなかった(厳密に言えば、近しい人間も他人である。つまり、自分とは異なった価値観を持つ存在である。)かも知れない(慣習や周りの空気に合わせていれば、何の問題も無かった。それに、人間の小さな集まりに出来ることなんて限られていた)が、今は違う。
人間の数が増え、生きていく上で、多くの他人と関係を持つようになった。
人間の巨大な集合(人口)が力を持ち、外的な環境に多大な影響を与えるようになった。
今、スマホの登場によって個人主義化は進んでいる(孤独な人間の巨大な群れ=大衆社会)。
みんな、頼れるものがなくて、感情的・感傷的になって、視野が狭くなっている。
⇒自分のこと(自己利益)しか考えられないようになっている。
近代時代に人類が溜め込んだ膿が、噴出している(人々が気づかない所で)。
―超個人主義、生の喜び・生きがいの喪失、資本による支配と記号消費社会、自然環境の破壊、などなど、問題を挙げればキリが無い。
現代は、そんなカオスな時代、全くもって酷い状況である。
だが、そんな状況だからこそ、自分たちが置かれた状況を正確に(私は、俯瞰的・中立的・客観的、これらの意味を含むものとして、「再・科学的<論理の限界を知りながらも、科学へ可能性を見出し、再び、科学のもとへ帰ってきた、という意>」という言葉を理解しよう。)把握して、それを踏まえて互いに良い考えを提示し合い、議論を通じて、互いの考えを「最良の一手」へと昇華させる必要があるのではないか。
その最良の一手を生み出す手段として有効なのが、理性・言葉・論理である。
ここまでの認識を持っている人間が、この世に何人いるだろうか。
一人で出来ることは限られている、皆で協力することが欠かせない。
理性・言葉・論理という枠組みが、アプリオリなものであるならば、可能性はあるはずだ。
啓蒙しよう、知性を身につけよう。知性を纏い、理性・言葉・論理を使役しよう。
もし、他者がいなければ、言葉も論理も必要なくなるだろう。それらは、他者とコミュニケーションを図るための手段であるからだ。(だが、実際には、“他者がいない”なんて状況は有り得ないし、仮に有り得たとしても、そんな世界、つまらんだろう。)
だから、僕は、他者がいる世界に感謝する。
この世界に産まれ、生きることに対して喜びを感じることができる。
やはり、僕に無分別智はまだ早いようだ。死ぬ直前になったら、思い出せばいいさ。(きっと、無分別智は、死の練習であるに違いない。)
「ある」とは何か。
精神も物質も「ある」とするなら、「ある」とは何か、どういう状態か?
分別智で真実に到達できる問題なのか?
「ある」とは、「認識の対象になっている状態」を指す?
そうだとすれば、「あるもの」とは、「認識され(得)るもの(全て)」である。
私は、神という「絶対者という属性をもった対象(観念)」を認識することができる。
ということは、神はある(いる)のか?
やはり、物質界と精神界で、「ある」の意味(認識)は異なるらしい。これは、認識の対象が物質か精神かで、対象の認識の仕方が異なるということを意味する。
精神界に属する対象は、目でも見えなければ、手でも触れられない。
=五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚) で捉えられない。
「物質」と「精神」と言うと、両方共に実体(独立して存在するもの)であると勘違いする。
だが、実際は、「脳(物質)というものがあることで初めて、こころ(非物質)というものが現れる」のである。
だから、「物質」と「非物質」という分け方でいいんじゃないか?
(随分と唯物論チックだが、これが最も正確な気がする。)
「ある(いる)」と「である」の違い。
これは、ハイデガーが言っていた。
「『存在すること』を示す言葉」
「性格・性質を伝える言葉」