隣人愛はどこから来るか。
「世界」には、次の三者しかいない。
その三者とは、「神」と「自己(私)」 と「その取り巻き(非私)」である。
だが、「絶対者」に対する信仰をもつ人は、次の視点を手にする。
(信仰という行為は、人間にしか行えないか?)
「あなた(絶対者)」 と「私たち(私+隣人)」で、“世界”はできている。-(*)
ここでの「絶対者」とは、特定の宗教における「神」を指すとは限らない。
(この「絶対者」は何者にも縛られない。←こう表現することすら、本来はできない。)
ここでの隣人とは「絶対者」以外の全ての存在を指す。
(「他者」と呼称しても良いかもしれない。)
この視点(*)を持つ者は、「共に」と言う意識から、「隣人への愛」を育むことができる。
ただし、私(人間)が厳密な意味で直接感知できるのは、“世界”ではなく「世界」である。
なぜなら、「絶対者」の存在証明を行い、“世界”像を、「この世界」の存在者(私・非私含め)に完全に納得させることは、原理的に不可能だから。
なぜなら、「絶対者」は捉えられないから。
だから、(*)を得ることは、不可能なことである。
ここで問う。「絶対者」は本当に捉えられないのか?
信仰とは何か。絶対者を信じること。論理の飛躍。どうすればいい?
論理は事実との親和性が高いが、信じることは真実との親和性が高い。
「世界」を理解するための手段である論理と、“世界”に近づくことができる信仰。
論理でcommunicateし合うのは、人間だけである。(論理と通じない「隣人」もいる)
論理では、「世界」をunderstandすることはできても、「世界」とcommunicateすることはできない。
私は、understand(理解すること)よりもcommunicate(繋がること)を欲している。